今日は、過去に私が好きになったことがある有名人をまとめてみようと思います。誰得やねん?と、自分でも突っ込みたくなるテーマですが、一度まとめておこうと思ったのです。
因みに昨夜から「今、私が一番好きな芸能人」のとある報道でネット上が盛り上がっていますが、この報道がある数日前から時間ができたら一度書いてみたいなと思っていたテーマです。なので、今回のことは関係ありません(笑)。
さて。好きな有名人……。少し前にオタク(ヲタク)という言葉ができ、今では「推し」が浸透し、分かりやすく言えばファンってことですね。
ちなみに私は小さいころからミーハー気質があるので、ファンになった人も数知れず。ファンになると「この目で見たい!」と思うタイプなので、その時々でできる限り現場に飛びました(たいしたことないけど)。
では、ちょこっと書き進めてみようと思います。(リア友が見たらバレるな。でも多分見つからないだろう)
私のファン遍歴~10代~
まずは私の10代の頃のファン遍歴を見ていきましょう。
テレビやドラマを見ていて、「この番組好き!(=主人公やメインの出演者が好き)」というのはさておき、明確に「この人のファンです!」と思った方に絞ります。(多いのでね、なんといってもミーハーですから)。
小学生4年から数年間は熊田康則選手
小学校4年から高校3年で引退するまで、バレーボールをしていました。そのことがきっかけで小学4年生から数年間は、当時富士フィルムや全日本でエースとして活躍していた熊田康則選手のファンでした。全日本はほぼ富士フィルムの選手と言う、フジの黄金時代です。
同じく人気があった川合俊一選手や井上譲選手(not富士フィルム)と共に、特に人気が高かった印象があります。川合選手は今とは違ってシュッとした印象で(笑)、熊田さんはどちらかと言えばヤンチャな感じ。と言ってもヤンキー系のヤンチャじゃなく、ガキ大将的な。
小学生だったのでテレビを見て、地元に来た全日本の試合を1回観に行ったくらいでしたが、初めてファンになった人なのである意味印象深いです。そうそう、 フジの選手のトークが収録されたCDも購入したなぁ。え?そうです。「青春の色は緑」です。
色んな方のファンになったのですが、ファン真っ最中に結婚をされた方は「今のところ」熊田さんだけ。バレー雑誌で奥様との特集が組まれ(よく考えたらすごいな)なれそめや、2人のスナップ(わざわざ雑誌のために撮影したもの)が掲載されて、「いいなぁ~」なんて小学生ながらに思ったものです。かわいいね。私(←自分かい!)。
今は「熊の隠れ家」という居酒屋を経営しながら、子どもたちにバレーボールを指導しているそう。熊田さんらしいや。
因みに私が所属していたバレーボールチームは、好きな選手にちなんだ背番号を付けることができたので(子供たちで話し合って背番号を決めていた)私は3番(熊田さんの全日本の方の背番号。フジは確か1番だった)でした。うん。みんな川合さんとか井上さんで、熊田さんファンは私だけだったからすんなり3番をゲットできた。
そのまま似たメンバーで中学校に上がってバレー部に入ったので、中学でも3番をつけてたような気がする。いや、中学はポジションで背番号が決まったんだったかな?
最近はすっかり忘れていましたが、30代までは好きな数字を選べと言われれば「3番」でした。習慣ってすごいね!
中学1年からほんのり宝塚にハマる
中学1年生の時に、宝塚を観に行きました。いや、正確に言うと我が家は親子3代で宝塚ファンだったので、小学生のころから宝塚は見ていました。が!「面白い!」と思ったのは、中1(か中2)の時に見た星組公演の「炎のボレロ」でした。
この公演からトップになる日向薫さんのお披露目公演で、相手役は南風舞さん。私はどちらかというと二番手コンビの紫苑ゆうさん、毬藻えりさんの方が好みだったかな♡
それから数年間は劇場やテレビで各組を見ることになり、その後、花組の大浦みずきさんのファンになりました。確かファンクラブにも入ったはず(相変わらずミーハー)。人生初ファンクラブ入会は、大浦みずきさんでした。
大浦さんの前のトップの高汐巴さんもとても好きだったのですが、さよなら公演をテレビで見てファンになったので、すでに退団されていました。後にバウホールのリサイタルは観に行きました。そして、昨年、高島屋京都店の地下ですれ違ったような気がする(笑)(ペーさんは京都出身)
話を戻して大浦みずきさん。成績1番の方なんですよね。ダンスの名手で「宝塚のアステア」と言われた方。坂本くんもアステアの作品を演じているので、意外な所で共通点が……と感慨深いです。
本当に悲しいことにご病気で亡くなられてしまったのですが、つい先日、亡くなられて10年とのことで「しのぶ会」が行われたようです。私は誰に関しても宝塚を退団されたあともファンということはないので、お亡くなりになられたときにはすでにファンではなかったのですが、やはりとても悲しいですね。。。
高校時代も宝塚
バレーボールの推薦で高校に入学したものの、バレー選手ではなく宝塚にすっかりハマっておりました。受験はしませんでしたけど(←てへ!)。
ただ、バレー部は学校指定の強化クラブだったので、いかんせん休みがありません。大みそかまで練習&掃除をし、元旦から始まると言う……。
そのため、宝塚の舞台を観に行くこともできませんでした。そこで、自主練やトレーニングだけで練習が終わる、中間や期末試験の前の時期を利用して宝塚を観に行っていました。
いや、電車で2時間はかかるんですけどね。勉強?え?なにそれ、おいしいの?もちろん親にも内緒です。(友達の家で勉強する~とか言ってました、すみません)
中学時代だったか、高校時代だったのかはちょっと不明なのですが、大浦さんが退団された後は、そのまま花組のファンで、安寿ミラ(ヤン)さんと真矢みき(当時は真矢ミキ)さんの「ヤンミキコンビ」も好きでした。ヤンさんが退団された勢いで、何故だかミキちゃんのファンクラブへ。
ただ申し訳ないのですが、ミキちゃんのファンクラブは本当に勢いで入っただけで、チケットを1回取ったかどうかくらいでした。当時からヤンさんの方が好きだったので、 多分……私自身ミキちゃんのファンでは無かった気がします。はい。
17歳からは安蘭けいさん
(瞳子さん、やっぱ男役カッコいいね)
厳しかった部活も高校3年生の夏で引退し、自由な時間がやってきました(受験勉強しろ!)それまでは部活の仲間とつるむことが多かったのですが、「宝塚好きなの?」「私も好きなの!」なんて声をかけてくれるクラスの友達もいて、一緒に宝塚を観に行ったりしていました。(だから、受験勉強しろ!)
その時にファンになったのが安蘭けいさん(ちなみに瞳子さんも入団時は成績一番)。まだ研一(入団1年目)だったので舞台を見てファンになったのではなく、完全に見た目と雰囲気でファンになりましたね(笑)。私は今もそうですが、手紙を書くのが好きなので、安蘭さんにもファンレターを書いていました。
すると、当時お手伝いをされていた方から連絡が来て、高校のお友達と2人でちょこちょこ顔を出させていただくことになりました。(研一なので大々的な「会」はまだない)。
入り待ち、出待ちは当たりまえ(むしろ当番制)。何人かが順番になって、ポット(お茶)を入れたりお弁当をつくったり、並びに参加したり、観劇される会の方にチケットを配ったりしていました。お弁当……いや、あんなモノを入れてしまって、本当に申し訳ない……(ちなみに私のお友達はお料理が上手。ワイロを渡して、お弁当当番を変わってもらったことも多数。)
「お茶飲み会」(まだファンクラブじゃなかったからね)の司会なんかもさせてもらったり、お花出しを手伝ったり(蘭鉢をかかえたまま派手に転んだ人もいたなぁ……私ではない)、出の時にガードをつくったりと初めての経験でとても楽しかったのですが……
いつしか、「会」の仕事の方が楽しくなっちゃったんだな………。もちろん瞳子さんのことは大好きだったけど。
その後、20歳を期に一旦会のお仕事は辞退させていただいて、1年ほどは行けるときだけちょこっと公演を見たりしていました。その後は……なんとなくフェードアウトしちゃいました。色々書いたし、瞳子さんは後にトップスターになられましたけど、私が拝見していたのは最初の方のほんの数年だけですね。
18歳からはCHAGE&ASKAと正田耕三選手
瞳子さんのファンをしながら、 CHAGE&ASKAと、プロ野球の広島東洋カープの正田耕三さんのファンにもなりました。
このころのスケジュールは、年間を通して宝塚(東京公演の時はやることがないけど、大劇場での公演期間やお稽古期間は入り待ち・出待ちなどがある)、夏は野球、冬はCHAGE&ASKAという感じ。(勉強しろ)
CHAGE&ASKAのファンになる
野球が夏っていうのは当然ですが、このころのチャゲアスは冬にライブが多かったんですよね。チャゲアスのファンになったのは18歳の時に買ってもらった、携帯用カセットプレイヤー(時代!!!!!)がきっかけ。
そう!このときほんのり好きだった緒方直人さんが掲載されていた雑誌を購入したときに、チャゲアスのニューアルバムのインタビューも載ってたのがきっかけです。カセットプレイヤーで通学時に聞こうと思って、ベストアルバムをTSUTAYAで借りてまんまとハマりました。
だから、宝塚までの電車も一人の場合はずっとチャゲアス。ファンクラブに入会して、チャゲアス友達もできて、ライブに行ったり、お茶したり、おしゃべりしたり(おや?以外と社交的だぞこの時代は)、楽しかったなぁ。
富士急ハイランドでのイベントにも参加したし、CHAGEさんのラジオの電話企画でお話もさせてもらいました!(やっぱりミーハー!そして今、どの口が「恋のお悩みテレフォンが嫌い」とか言うか!!!)ちなみにCHAGEさんがつけてくれたラジオネームは…。いや、気に入ってないのでやめておこう(笑)。
今もCAHGE兄(とか「チャゲちゃん」とか、当時のファンは呼んでいた)のことは心の中で応援しているけど、ASKAさんについてはやっぱり自分勝手だなと思ってしまいます。もともとその気はあったと思うけど、ここまでになったのはやっぱりクスリの影響も大きいのだろうと。。。
ただ、当時はASKAさんの発言や歌詞から受ける影響はとても大きくて、私の20代の基礎をつくった方なのかもしれない。今となっては、本当に残念だけど。
話はそれましたが、ファンだったり、しばらく忘れていたり(?)して、最後にチャゲアスファンとしての記憶があるのは……30代半ば頃までかな?
時期ははっきりと覚えていないけれど、最後に参加したライブ「奥の細道ツアー」では、事前に提出(?)していた「俳句」が大賞(?)を取りました(舞台で発表されただけ)。でも、うれしかったです。
今もCHAGEさんを応援しているといいつつ、本当に心の中でささやかに応援するだけで、新曲チェックやライブ参加はもう何年もしていません。
広島東洋カープの正田耕三さんも好き
短大時代の学友が、強烈な阪神ファンでした。私は父の影響で広島が好きだったのですが、その中でも正田さんが好き!(ご存知ない方にお伝えすると、多分今のJKが坂本さんのファンになるよりももっともっと渋好み過ぎる感じです(笑)。いや、当時の正田さんは今の坂本さんより随分若いけど)
阪神ファンの友達と定期的に甲子園に通いました。ちなみに友達曰く、「ここ(甲子園は阪神の)ホームやから、そっち(広島側)座ってもええで!」とのことで、毎回3塁側のスタンド席で応援していました。
大阪城ホールで行われた野球選手の運動会にも行ったなぁ。駅でばったり正田さんを見かけて、うぉーーーーーーーーーーーーーって焦って後ずさりしていたら(ミーハーだけど小心者)、後ずさりした先に超人気選手(だれだったかな?)がいたような……。
遊んで帰る友達と私、地元に帰る選手たちの駅での時間が運よく重なっていたようです。声とか全然かけられませんけどね。
また、ある日は甲子園より小さめの球場で試合があり、バックネット裏で広島のキャップをかぶって座っていたら(友達は阪神のキャップ)、阪神ファンのおっさんおじさまが……
お「ねぇちゃん、根性あるな。誰のファンや?」
私「正田さんです!(前のめり)」
お「(バッティング練習をしている正田さんに向かって)しょーだー!!ここにファンおるぞーーーー!!!」
私「(軽めのパニック)」
正田さん「(キャップを取ってペコッ)」
私「(気絶……うそ、うれしかった)」
という出来事もありました。ありがとうおっさん。感謝してる。
短大を卒業する前に、広島市民球場にも遠征しました。友達曰く、「毎回甲子園じゃ悪いからね!」ですって。粋なヤツよ。ただ、阪神戦はイヤだとのこと。広島まで来て、勝ったり負けたりは嫌よね。そりゃそーだ。
夜行バスで到着したので、早くからチケット売り場に並んでいると、広島ファンのおじさんと知りあいました。関西から来たというとともて歓迎してくれて(笑)、観戦時に焼きそばをごちそうになりました。ありがとう、おじさん!確かその日は、北別府学選手の引退試合(始球式的登板のみ?)だったと記憶しています。
卒業して学友と別の進路に進んでからは、球場に行くこともほぼなくなりました。そしていつしか広島東洋カープ、および正田さんのファンとしてはフェイドアウトしていったような気がします。正田さん、プレーがシブくて好きだったな。
その後、10年以上の時を経て「カープ女子」なる言葉がはやりましたが、その頃にはカープの選手は全く分からなくなっていましたとさ。
長くなったので一旦まとめ!
いよいよ20代に突入です!それでもまだまだミーハーっぷりは続きます(笑)。
と書き出したのですが、現時点で文字数が4,500程と長くなったので、10代で一旦まとめたいと思います。書くことで色々と思い出せて、ちょっと楽しい(笑)。でも私、フェードアウトばっかだな。そう。嫌いになったわけじゃないのよ♡
私が今名前を挙げた方の中には、まだ現役バリバリで活躍されている方もいらっしゃるので、こんな風に名前を出してよかったのかどうか……。ま、それこそ20年以上前の話だし、誰も見ないからいっか!(すみません)
次は20代のファン遍歴から書き進めます。
*つづき* → オタクかファンかミーハーか?私の好きな人遍歴まとめ~20代編~
↓ え?待って!気になる。読んでみたい。